
戦国武将の一族・堀尾氏を顕彰する
堀尾史蹟顕彰会
事務局 今枝 達夫さん(右) 事務局 社本 盛治さん(左)
大口町にゆかりのある戦国時代の人物である堀尾金助とその母や堀尾吉晴公を、地域の人々とともに顕彰(善行や功績などを広く知らせること)する「堀尾史蹟顕彰会」。堀尾氏を弔い、地域の子どもたちの健やかな成長と郷土の発展を願って、当時大口村の村長であった社本鋭郎氏が発起人となり昭和33年に発足した。 毎年4月の第一日曜日に行われる「金助桜まつり」や5月の「金助とその母供養祭・母の日記念講演会」を、堀尾氏の屋敷があったと伝わる豊田区堀尾跡にて主催するほか、松江開府の祖である吉晴公のご縁で島根県松江市との交流も重ねている。
子を思う母の物語
堀尾跡公園内に架かる「裁断橋」にまつわる物語をご存じだろうか?
天正18年(1590年)、小田原の戦いへ出陣する18歳の金助の無事を祈り、金助の母は当時熱田神宮付近に流れていた精進川に架かる裁断橋まで見送ったが、願いむなしく金助は帰らぬ人となってしまう。母は悲しみに暮れ、金助の供養のために私財を投じて別れの場となった裁断橋を架け替えた。橋の装飾である擬宝珠には母の思いを伝える文が刻まれ、日本母の三名文として知られている。
現在熱田区の裁断橋は縮小され復元されたモニュメントとなっているが、大口町ではそれを惜しみ、平成8年に金助が日々を過ごしたであろう堀尾跡の地に橋を再現した。
>堀尾跡公園リーフレット(表) >堀尾跡公園リーフレット(裏)
子どもたちを見守るまつり
金助桜まつりでは松江市からお招きした松江城鉄炮隊の実演(令和7年)等の華やかなイベントと並行し、神事も厳かに執り行われる。まつり当日、豊田区の各集落では子ども獅子が家々をめぐり、最後に堀尾跡公園に隣接する八釼社内の堀尾社へ集結する。堀尾社の例大祭において、集まった獅子頭は神前に供えられ、清められる。
これらの初代獅子頭は顕彰会の初代会長となった社本鋭郎氏が、自身の子を深く案じていた金助の母の思いを継ぎ、地域の子どもたちの健やかな成長を願い寄贈したもの。子どもの成長や地域の安心安全への祈りが根底にあるからこそ、人をひきつけご縁が広がるまつりになっているのではないかと、今枝さんは語る。
金助の母の切なる願い
金助の母は「後の世の又後まで」金助の冥福を祈ってほしいと裁断橋に遺している。顕彰会はこの遺志を受け止め、昭和46年に金助とその母、47年に吉晴公の供養塔を桂林寺(堀尾跡二丁目)に建立。以後「金助とその母供養祭」を毎年欠かさず営んでいる。
供養祭と同日には子育てや親子をテーマに「母の日記念講演会」も開催。「面白いと思ったこと・参考になったことをぜひ食卓で話題にしてください」と呼びかけ、金助とその母を偲んでもらうことも事務局の大切な仕事のひとつだと考えている。
また、金助の父とされる吉晴公が関ヶ原の戦いの後、領主となった島根県松江市にある堀尾氏の菩提所への参拝も、会の設立以後ずっと続けている。
「後の世の又後まで」の継承を
今枝さんの理念は「ひとりではなにもできない、みなさんに助けていただいてこそ事は成る」。事務局の仕事に就いた当初には豊田区が中心だった会員を町内全域に広め、松江市の菩提所の法要へも「みんなで松江に行こう」と呼びかけ、200名での参列を実現させた。こつこつと築き上げた松江の方々との民間交流が、大口町と松江市の姉妹都市提携として結実したときは喜びもひとしおだったとのこと。
今事務局は世代交代の時期。次代を担う社本さんは、子どもたちを大切にする心を軸にして会の根幹である堀尾氏の顕彰を、諸先輩方がつくり上げてこられた道を守り、みなさんと協力して将来へ継承していきたいと語る。